江戸時代から中国に認められていた「匠の技」ー仙台御筆

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我朝圣天子德化覃敷,声教洋溢。珍奇厥贡诸殊方,品玩聿献于帝室。修文偃武宝贵橐簪,进士作人雅重不律。故青镂有异数之颁,彩毫有三品之秩。珊瑚作网,每偕栗尾齐名。玳瑁为衣,谁别竹床异质。则萩枝之吐颕而芳华,松管之凝毫而秀逸。当入南国以扬镳。爰赋东方之名笔。

『古詩韻範』

 文/高橋亨

 ここに引用したのは、1781年に日本の長崎に滞在していた朱緑池という人物が作った“宫城野萩寿卫山松二笔赋 以题为韵”という賦の最後の部分である。この賦は、江戸時代後期に刊行された《古詩韻範》という書籍の最後に掲載されている。《古詩韻範》の作者は、日本で漢詩を学び、造詣を深めた武本登登庵(別名は武元質:1767~1818)という人物である。《古詩韻範》は詩の韻法を学ぶための教科書であり、中国の有名な詩を多数掲載し、それらの詩が用いている韻法を解説する。

 さて、朱緑池の賦についてだが、そのタイトルからわかるように、宮城野の萩・寿衛山の松を筆管に用いた筆について詠ったものである。賦の中で用いられている“聿”“不律”“青镂”“彩毫”“栗尾”は全て、有名な古典や詩文に見える筆の別称・雅称である。また、宮城野は、日本の東北地方最大の都市である仙台市の東に広がっていた原野で、そこに萩が生い茂る情景は、古くから“和歌”に詠まれてきた。また、寿衛山は、仙台市の北に位置する多賀城市にある“末の松山”を指すらしく、この末の松山も古くから和歌に詠まれた地であった。

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現代の多賀城跡

 つまり、朱緑池に感興をもよおさせ、賦を作らせた二本の筆は、ともに宮城県仙台の地で生み出された佳品である。仙台で筆づくりが盛んになったのは、江戸時代初期(17世紀初め)以降のことだった。仙台を治めた諸侯 伊達政宗(1567~1636)が、当時の日本の文化的中心地であった京都・大阪から筆匠を招いたことで、仙台の筆づくりの伝統が始まったのである。伊達政宗は、中国の詩文に造詣が深く、自ら詩を作っている。それゆえ、中国で珍重された文房四宝の筆頭に挙げられる筆の生産を重視し、自分の領内で佳品を生産できるようにしたかったのかも知れない。

 やがて、仙台で生産された筆の水準は向上していき、古くから和歌に詠まれた仙台近辺の地に産する樹木を筆管に用いた筆が作られ、諸侯に献上されたこともあった。このように諸侯に献上された筆は“仙台御筆”と称され、仙台の名筆を指す言葉として現在まで受け継がれている。その後、日本が明治時代に入ると、天皇の一族にも仙台の筆を愛好する者が現れ、仙台の筆は日本全国に名を馳せるようになる。残念なことに、人々が筆を用いる習慣は時代の流れによって廃れ、現在では仙台御筆を生産する筆匠の数は少ない。とは言え、数少ないながらも、現在まで仙台御筆の伝統は継承され、筆匠によって萩を筆管に用いた“萩筆”が作られ続けている。

 朱緑池がどのようにして、仙台の筆を手に入れたのかはわからない。あるいは、風雅な品物として珍重され、長崎まで売られて行った物を目にして購入したのかも知れない。朱緑池は、賦の後にこう記している。

辛丑(1871年)仲夏十日,雨窗闷坐,偶忆案头所贮松萩两种名笔,为贵地操觚家所雅好也。予亦喜其清幽不俗,漫赋一篇,以补王右军笔经之缺云儿

『古詩韻範』

 言うまでもなく、筆は中国発祥の文房具であり、中国では古来多くの佳品が生み出されてきた。そして、日本人はその中国の佳品を求め続けてきた。日本人が好んで輸入した中国の産品に文房具が含まれることは歴代の史書に記載があり、それは朱緑池が生きた清代でも変わらない。そのような時代の中国人に「喜其清幽不俗」と言わせ、賦を作らせたのだから、仙台の筆は類まれなる趣を持つ佳品と言えるだろう。

 日本の職人技については、例えば南宋時代の史書に“俗善造五色牋,错金为兰或为花,中国所不逮也,多写佛经。铜器尤精于中国”とあるように、早くからその水準の高さが評価されてきた。そして、仙台御筆が作られたことで、ついに文房においても中国士人の鑑賞に堪える逸品が現れたのである。

 ここまで、仙台の筆について述べてきたが、賦を作った朱緑池その人についても語らねばなるまい。彼が福建の人であることは、先に引いた“辛丑仲夏十日”で始まる文章の後に“清闽中烟波散人朱华绿池”記していることからわかる。朱緑池の賦には“当入南国以扬镳”とあったが、南国とは彼の故郷福建を言うのだろう。しかし、朱緑池の人生については、その出身地以外に詳しいことはわからない。武本登登庵は、《古詩韻範》のさいごにこう記している。

绿池三落第,四来日本,归国则死,其诗文无传。予在琼浦得此赋于松浦东溪。逐段转韵,与其说不戾。予得一师于海外,而知古诗韵法焉。录诸卷末,以传不朽,聊寓不忘本之意云,

『古詩韻範』

 琼浦は長崎の雅称であり、松浦东溪(1752~1820)は日本の儒者である。この一文から、朱緑池は科挙に何度も挑戦したが合格することができず、日本にやって来たことがわかる。あるいは、日本に赴く商人に雇われ、生活のために文書の作製といった仕事を請け負っていたのかも知れない。いずれにせよ、彼自身は不遇を感じていただろうし、日本行きも彼の本意ではなかったのではないか。そんな心情を、先に示した文章中の“雨窗闷坐”という一節から感じ取れるような気がする。その朱緑池が仙台の筆を愛でることで、いささかでも心を慰めていたのだとしたら、それは仙台の筆が持つ風雅さが為せることだっただろう。

 朱緑池自身にとっては、日本行きは不本意なことだったかも知れないが、彼が仙台の筆を題材として賦を作ったことで、武本登登庵は詩の韻法を学ぶことができ、それに発奮して日本人に韻法を学ばせるための書物を刊行した。武本登登庵は“予得一师于海外”とまで言っている。朱緑池と武本登登庵は直接会ったことはないようだが、筆・詩賦という中国発祥の文化を通して師弟の交わりを持ったのである。それゆえ、この仙台の筆にまつわる逸話は、中日が文化の力によって交流をしていた時代の佳話と言えよう。

 

【中文版文章】百多年前中国古人对日本匠人的赞叹【仙台毛笔】

・仙台の筆については宮城県を代表する工芸品として、同県のウェブサイトでも紹介されている。

https://www.pref.miyagi.jp/soshiki/shinsan/15hude.html

 

作者/高橋亨
 中国の歴史を研究している者で、特に明史を専門にしています。2008年から2010年まで、南開大学に留学しており、その後も何度か天津を訪れています。かつて王頂堤で同学と酒を飲んだのは良い思い出です。現在は、日本の仙台市に住み研究活動を続けています。

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